第9章:情報の迷宮──真実と陰謀の狭間で
「ねえ、サトコ。この動画見た? 世界的な陰謀論らしいけど、
もしかして本当かもしれないって思っちゃってさ……」
友人の声が、スマホの画面越しに響いた。
その日は、何気ない会話から始まった。
パンデミック条約の話題が少し落ち着いた頃、
世間では別の“議論”がざわめいていた。
陰謀論、フェイクニュース、AIによる自動生成の情報が混在する時代。
私はふと、自分が信じていた「情報」そのものを
見直す必要があると感じていた。
SNSのタイムラインは、まるで濁流。
真実の声も嘘の叫びも、区別できぬまま流れ去っていく。
「ファクトチェック済」
──その表示すらも、ある種の誘導ではないかと感じる。
“誰が”“何を”正しいと決めているのか?
そこに、私たちの意思はどれほど反映されているのか。
私はひとつ決心をした。
「情報の発信源」を自分で調べてみよう、と。
特に、過去に陰謀論扱いされた出来事が、
のちに事実と認められたケース──
それらの経緯を丹念にたどっていくことにした。
資料を読み漁る日々のなかで、
私はいくつかの構造に気づいた。
一つは、ラベリングの罠。
陰謀論、反科学、右派、左派
──言葉のタグを貼られた瞬間に、
その情報は「読むに値しない」と切り捨てられる。
しかし、その中には貴重な視点も含まれていた。
もう一つは、恐怖をベースにした拡散。
“見ないと損する”“シェアしないと危ない”
──不安を煽る仕組みが人の注意を引く。
それが、どこまで計算された演出なのか。
「情報は武器にもなり、盾にもなる」
宮城先生が昔、そう言ったのを思い出した。
子どもの頃には、その意味がわからなかった。
でも今は、少しだけわかる。
そして、こう思うようになった──
“情報の正しさ”ではなく、
“私がどう判断するか”が問われているんだ。
ある夜、私はノートにこう書いた。
「知ることは、自由への一歩。
でも、選び取る力がなければ、かえって自分を縛る網にもなる」
その言葉を書いたとき、
胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。
私は、情報の迷宮を彷徨いながらも、
自分の“目”を信じて進む術を身につけようとしているのかもしれない──
次なる問いは、
「わたしは、誰の言葉を信じるのか」。
そして、その問いはやがて、
「わたしは、どんな世界を望むのか」へと繋がっていく。
つづく。
第10章