『見えざる網を解く少女』第8章:パンデミック条約──自由とリスクの狭間で

サトコの目覚め

第8章:パンデミック条約──自由とリスクの狭間で

2025年5月。
私は図書館の一角で、厚さ数センチの資料をめくっていた。

それは、まもなく批准が予定されている
「WHOパンデミック条約」の全文だった。

「これはただの感染症対策じゃない…」

そうつぶやいた自分の声が静寂に溶けていく。

条文には「グローバルヘルス・セキュリティの確保」
「情報共有の義務」
「迅速なワクチン配布体制の構築」などの
文言が並ぶ。
表面的には、人々の健康を守るための正義に満ちている。

しかし、読み進めるうちに、
背筋を這うような違和感が浮かび上がってきた。

「国家主権の一部を超国家機関に委ねる……?」

ページのすみに小さく記されたその一文が、
まるで鍵のように、全体の風景を変えた。
感染症発生時、各国はWHOの指示に従う義務を持つ。
その範囲は、国境の閉鎖やロックダウン、
そして予防措置としてのワクチン接種の義務化にまで及ぶ可能性があるというのだ。

私は、その夜、家族と食卓を囲みながら話を切り出した。

「ねぇ、みんな。この条約のこと、知ってる?」

父は無言でうなずき、
母は「テレビで少しだけ見たわ」と応じた。
弟はスマホをいじりながら、面倒くさそうに聞いている。

「このままだと、日本も強制的にワクチン接種とか、
行動制限されるかもしれないんだよ。しかもそれが、外からの命令で」

「でも、感染症を防ぐためには、
ある程度の制限も必要じゃない?」と母が言う。

私はうなずいた。

「たしかにね。病気から守ることは大事。
でもね…たとえば“自分で決める権利”がなくなるのは、
ちょっと違うと思わない?
“義務”として押し付けられるのと、
“自分で選べる”のでは、まったく違うんだよ」

そのとき、父が静かに言った。

「サトコ、おまえは“バランス”の話をしているんだな」

「うん、そう。ウイルスだけじゃない、
恐怖そのものが社会を壊すから…」

あのパンデミックの頃を、私は忘れられない。


人々が疑い合い、距離をとり、家族すら分断されたあの空気。

恐怖が一人歩きし、
「対策」が「統制」にすり替わっていくプロセス。

そして、それは繰り返されようとしているのではないか?

その後、私は親友のマリとカフェで話した。

「パンデミック条約ってさ、“健康”という言葉を使って、
人の自由を奪う危険があるよね」

マリは眉をひそめながら答えた。

「でもサトコ、私たち素人が、
そんな大きな条約の内容を判断できるのかな?」

だからこそ、
考えることを放棄しちゃいけないんだよ。
『自分の体は自分のもの』っていう意識がないと、
誰かに決められる未来しか残らない

沈黙の中で、マリの目にわずかに灯った光を私は見逃さなかった。

「……たしかに、それって怖いかも」


世界は今、大きな転換点に立っている。

恐怖による支配と、自由な意志の尊重。
そのせめぎあいのなかで、私たち市民が問われている。

「自由には、責任が伴う」──

誰かがかつてそう言った。

だから私は、何が“真の安全”なのかを見極めたい。

与えられた選択肢ではなく、自分で選び取る自由のために。


つづく。

第9章

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