【一月万冊 清水有高】国歌斉唱!コロナ感染してでも国歌は学校で歌え?!・・・リスク管理として、音楽としてどうなの?・・・音楽家片岡祐介さん。

こんにちは、\イッカク です。//

今回は、3月ごろ
コロナ感染の恐怖の中
というのに、
東京都立学校での卒業式での
校歌斉唱は
自粛していたが、
なぜかしら
国歌だけは
斉唱されていた
という
コレ、法律で
決まってるそうです。。。?

その辺の話を
コチラの動画で語っています。
■国歌斉唱!
コロナ感染してでも国歌は学校で歌え?!
リスク管理として、
音楽としてどうなの?
音楽家片岡祐介さん。
一月万冊清水有高。

■編集後記
やはり、こんなところに
なんか不気味な
「不自由な事実」というか
日本の共産社会主義のような
全体主義のような、嫌な
違和感を感じます。
「法律だから、ヤレ!」
みたいに、子どもたちの
命を守ることよりも「決まり」
を優先する軍隊予備機能
を持った学校教育のありかた。
そして、歌は自ずと
歌うものであって
歌わされたり、
歌うことを禁じられたり
自由が削がれて無視
されていた感があります。
このような
「全体から見て正しい事は、
強制的にでも実施すべし」
という、脅迫にも似た
バイアスと違和感を感じます。
話は、ズレるかもしれませんが
どこぞの
組織内で、数パーセント以外の
マジョリティの
考え方が=「正しい考え方」
となったとき
数パーセントの
マイノリティらは、
何らかの
「除外」を受けるでしょう。
その意見が互いに受け入れられない
時は、マイノリティらは、
一方的な「除外・除籍」あるいは
「差別」を受けることになるようです。
調和というものが
無かったのでしょうか?
改めて「調和」というものを
考えさせられました。
ワタシ的に言えば調和とは
頭で考えた「正論」を
振りかざして、ぶつけて
理論を言い合ってるだけで
何も建設的な進展は
もたらさない事が
分かっています。
ある論客が競うTVで
「朝まで生・・・」とかは
課題や問題の提起する
意図を探るには良いですが、
観る気になりませんでした。
というのは、あの番組では、
もちろん結論は出ません
(誰か論客が勝つ
みたいなディベートの
ようなものでは無いにせよ)
し、調和も起こりませんでした。
つまり、少数の情報が
ある枠の中で
統制され、世論の方向性を
偏向させるような
言論操作させるような
つまり、
プロパガンダ=スポンサー優位性
と逆行する言論は弾かれ
自由で互いに認めようとする
場にはならないのです。

私の思っている調和とは
「ハート」で感じる領域です。
ハートには、プラス感情で
互いに思いやる気持ちが在る。
つまり、ハートが思考を
使うようにすべきと思います。
だから、最初に来るのが
「感じる」こと。
・・・ブルース・リーが云ってました。
「考えるな!」
「感じなさい」です。
だから、
「感じた」後にどう思うか?
そして、その思いを
どのように良い方向に
考えるのかという
プラスのハートが思考を
使うようにすべきなのです。
そのようにしたら
「知恵」が出てくるし、
「創意工夫」もする。
そうすれば
より、賢くなり、平和になっていく。
という、「軽快感」で
ウキウキ感
ワクワク感
という人間としての
周波数も上昇することになり
良いことズクメだと思います。
では、いつごろから日本は、
そう「重く」なったのか?
それは
日本の差別意識の歴史を探れば
分かります。
このことを追求すれば
ぶち当たるのが
「穢・穢れ・ケガレ」になります。
特に表面化してきたのは平安時代の
貴族社会からになっているようです。
もっと古い時代を逆上れば「身分」
というものを生み出した弥生時代から
差別意識の歴史は有ったと思われます。
また、ジェンダー研究で有名な
荻野美穂氏
http://gender.soc.hit-u.ac.jp/
sentanken14/inheritingGS_ogino.html

が言うには
『権力とは常にある少数の者を
悪として社会から排斥することによって、
他の多数の者に優越感と
差別意識を植え付け
幸福幻想をばらまきながら
大衆を自らの都合のいい方向へと
動かし、その上にのって
自らの立場を強化するものです』
同感ですね。

では、また。


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