「私」という3次元上での定義について

こんにちは、\ソウジャ です。/

私達が、当たり前のように、、
用いている、この「私」という
概念について考えてみます。

私たちは、普段から
使っている

私の持ち物
私のカラダ
私の家族
私の家
私の気持ち
私の・・・

というふうに、私の次に
出てくる文言は「所有する」
ことを指しています。

そうですね、
所有者は「私」。

では、所有してるその「私」とは
どんな存在なんでしょう?

たぶん、死んだら
その「私」と云ってた人が
居なくなるので、その「私」は
消えて無くなるのですよね。

そしたら、どこにもいない
「私」となります。

天体の年齢から云えば人間の
「私」は、ほんの一瞬、
線香花火です。

だから、素敵
だから、儚い
だから、残る

どこにもいなくなりますか?

しかし、その線香花火を
いっしょに
体験した
彼女の目の中に
「私」がいませんでしたか?

何を考え、
何を行うのか
この外観を決めるのは
「私」。

見かけの自分というものを
どのように表現し

行動させるのかという

固定点を形作ってしまうのも
三次元上での当たり前の
「私」。

それが、世間での
オギャーット
生まれた後に
物心ついたあたりの
スタートアップだった。

これが、
あたかも「私」から
始まる
ホモサピエンスの基本モデルと
いう概念付です。

小さいときから、
学校に通うあたりに

自分の
ランドセル、靴、ハンカチ、
ペンケース(筆入れ)、、、

『名前』を書いた、あるいは
親に書いてもらった
のを憶えていませんか。

今の親御さんと
子供達はいろいろと
学用品類の種類が多くなって
たいへんですね。。。
http://u0u1.net/P29U
この名前付けが、すでに
言葉による、「自分」という
物を所有する固定観念を強く
形成している行為だった
かもしれません。

そうなると

次は、「私」ー「モノ」
で、他人と比較が始まります。

当然、高価なモノが見栄えや
機能・材質などが目立ち、
それを持ってる「私」が
優位に立ったような

「優越感」を醸成させて
しまいます。

大人もやっていることですが、
この「モノ」と「モノ」との
比較で競争します。

大人の場合、たとえば
クルマ、とか、着物とか
ハンドバッグとか、靴とか、
腕時計とか、サイフとか、、、

まったく、
子供自分と変わりない
意識で生活してます。

むしろ、子供よりも
「劣化」が進んでます。

それが、長じて

大金持ちと普通のサラリーマン
というふうに比較して
上下をつけようとして
マインドが働くわけです。

おまけに、ブランドとか云う
レッテル貼りを行って
優越感を醸し出しています。

勿論、値段も相当なものです。

一般庶民には手が届きません。
そこで、優越感を満喫する
という、程度の低い趣味に
勤しむわけです。

このことを「成金趣味」
といいます。

真から富んでいる人は、
場を心得ていますし、
程々感があって、決して
見せびらかすような
下賤な思念は持たないでしょう。

ということで、「私」という
存在について、
その多くが、

自分・自分・自分・・・
と思う所有欲の
かたまりです。

「自意識過剰」の自分を
固定した点として、モノゴトを
観測しているヒトを「私」とか
「個人」とか
定義できるのでは
ないでしょうか?

この「私」中心の文明が
20世紀までの文明と
云えませんか?

その間、異を唱える
人々も多くいましたが、
21世紀の今でも、多くの人が
「私」という固定点障碍で
様々なものを観測・観察して
いる。

これでは、結果して
ろくな結果には
なっていないのです。

歴史を眺めてください・・・
■殺戮・戦争
■貧困と富裕格差増大
■あらゆる誹謗中傷と差別、類型
■環境破壊と悪化
■隠蔽・偏向
■政に絡む汚職
■裏切り
■衣食住性の堕落
■規範・規則の変遷万化
以上、ホモサピエンスと言われて
いるこの人類は、約数千年の
前から文化・文明と云われる
ほどのモノを構築してるが、
ほとんど、上記の項目の
繰り返しです。

霊長類のトップにいるのが
人間だそうですが、、
チンパンジーに比べて
劣っています。
http://soujya.net/2019/01/05/post-6271/

だって、今の人間世界で、子供を
チンパンジーの大人のように
「親や大人は手本を示す」
「子どもは真似る」
「大人は寛容」という
三つのポイントを理解して
実践に移してますでしょうか?

逆に、人間側が
教えてもらっている
感があります。

第一、親の代表格である
国会議員ですら
「手本」にならない昨今です。

そんな「あくどい」醜態を
子どもたちが真似るんです。

だから、平気で
人を殺したり、盗んだり、
騙したり、、、

だから、注意したいのは
親・大人が
手本すら示せてない!
という事実です。

なぜ?

親の親がそうだったから、、、
なぜ?

そのまた親の親がそうだったから


つまり、明治維新あたりから、
物質文明に偏りすぎて、
現在まで、この呪縛から
抜け出せていないのでは
ありませんか!

原因は「私」という固定点障碍。
でした。

それは、「私」という
概念から発するものの見方
考え方に原因がありそうです。

やはり、「私」って、一瞬で
あって、それが済めば
永久にその姿・形・色・音。匂い
が全て、無くなっていくのです。

その意味で、
「私」って「無い」存在と同じに
向かっているのです。

「私」・・・「無」

しかし、生きてる間は、
肉体から来るエゴは、相当な
影響を与えますから、
このできるだけ
エゴの「私」を無くせません。
なので、極力「小さく」して
滅私に近づけるのが
生きている間の「修行」という
ことなのかもしれません。

ところで、
イメージつくりをビジョンという
そうです。
ビジョンを持つことで
ある想念(ソート)が
発生します。

以下のように
述べておられる方がいます。

ジェームズ・アレン氏です。

「謎の哲学者」と
呼ばれた人です。

ここで、ちょっと彼を紹介
します。。。
(なんか馴れ馴れしいですが、)
1860年イングランドのレスター
で生まれ、15歳で父親が破産し、
その後まもなく死去。
そのため、アレンは学校を辞めて
働き始めますが、仕事を転々と
し、38歳になってから
執筆活動に専念。
しかし、9年後の1912年に
あっけなく他界しました。
残された書籍は全部で
19冊ありますが、
何を思っていたのか
英国以外での著作権は
すべて放棄しています。
おかげで、彼の書籍は世界中で
読まれています。
彼の生活は「夢の印税生活」
とは云えず、作家としての収入は
ゼロでは無いにせよ、
少なかったと言われています。

あとで、奥さんが
云うには
「夫は人々に何らかの
メッセージを伝えたい時にだけ、
書いていました。
そして、彼が人々に伝えたい
メッセージとは、
彼自身が人生のなかで
実際に試してみて、
良いものであることを
確認したもの、
それだけでした。」
と云っていたそうです。

では、彼の書籍から、
いくつか紹介します。

■≪AI朗読≫「原因」と「結果」
の法則

Forest Life Hackさん
(直訳で、「森林生活伐採」
ですか?)
https://nanami-k.net/as-a-man-thinketh/
より、有名な
原題:AS A MAN THINKETH
について
「引用させていただきます。
<引用開始>_________

なんという紳士ぶり・・・!

48年という短き生涯で、かつ苦労の多い青年時代を送ったようですが、執筆活動の間はとても満ち足りていた感じがします。

「原因」と「結果」の法則の原題について

邦題は”「原因」と「結果」の法則”、ですが、原題は

AS A MAN THINKETH

「人は思った通りの人間になる」

という意味です。

タイトル的には、AS A MAN THINKETHのままのほうがしっくりします。

「原因」と「結果」の法則の内容

この本は7つのパートに分かれています。
1パートずつ、わたしの気にいった箇所を取り上げます。

思いと人格

まさにタイトル(AS A MAN THINKETH)の通りですが、

人は誰も、内側で考えているとおりの人間である

ということを述べるパートです。

人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。

と言い切る。「親」「環境」「学校」「会社」「世の中」「時代」では人格は決まりません。

心という思いの工場のなかで、私たちは自分自身を破壊するための兵器をつくりつづけることもできますし、強さと喜びと穏やかさに満ちた美しい人格を創るための、優れた道具を作りつづけることもできるのです。

そして

人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である

ということです。

ただこの境地に達するには、

  • 自分の思いの数々を観察し、管理し、変化させながら、
  • それらが自分自身に、またほかの人たちに、さらには自分の人生環境に、どのような影響をおよぼすものなのかを入念に分析し、
  • 忍耐強い試みと分析によって、日常的で些細な出来事をも含む、自分のあらゆる体験の「原因」と「結果」を結びつける

ことが必要なのだそうです。

自分の日常、あまりに
何気なく過ごして
しまっていますね・・・

<引用終了>_________

>人は思った通りの人間になる
AS A MAN THINKETH
これほど、紫玉な文言は、他に
無いと思います。

なぜならば、

知花先生が、説いてました
「個人は存在しない」ということで、

個人でない、永遠の存在が
思ってしまえば、
そのとおりに顕れたり
成ったりするのは、当たり前でしょう!

■知花敏彦講演集 A129 個人は実在しない 何ぜ

以上「私」にまつわる観点での見方・考え方を
見てきましたが、

「私」=個人とみるか
それとも
永続的な存在としてみるかで
大きく、捉え方が違ってきていますね。

ただし、
「私」=「魂」や「霊」と見るのは
ちょっと、ワタシ的には
疑問が残ります。

つまり、
永続的な存在=「魂」や「霊」
とすることに
どうも、言語束縛(レッテル化など
言語で、理解して、3次元のモノの
ように理解しようとし、さらに
それが、永久的に存在できるみたいな
・・・それ、ウソでしょ!)
してる感じがしますから、、、

では、また。


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