柿のある風景

こんにちは、\ソウジャ です。/

もう秋を感じる時期になりました

さて、
昭和61年9月1日
読売新聞社発行による
読売カラー百科
四季を楽しむ
風物詩俳句歳時記「秋」より
森脇逸男氏の書いた
「柿のある風景」が

私の記憶と重なって、
時空が過ぎ去ってしまった
あの「風情感」を思い起こさせて
くれます。

あぁあー、日本なんだなって
思います。

では、タイムスリップどうぞ…

<引用開始>_________
柿のある風景

サオの届かない高いこずえに
二つ三つ取り残された柿の実が
濃く色づいて、
西の空に傾いていく夕日に
あかあかと
照らし出されているーーー

日本の秋というと、
柿の実のある風景を
真っ先に連想する。
その黄色く赤い色とツヤと味。
多分、小さいころ住んでいた
家の庭に、数本の柿の木が
あったためだろう。

透き通るようなもえぎ色の
柿若葉のあと、地味な白い花が
咲き、小指の先ほどの
小さい実が、親指の先から
ピンポン玉、テニスボール大と
みる間に大きくなって行き、
次々に色づくころになると、
季節はすっかり秋となる。
むろん、季節の移り変わりの
不思議さに感嘆するような
殊勝な心情は、子供には無縁で、
いよいよ甘く熟した柿が
食べられると単純に
うれしかったものである。

その地方では木練りと呼ばれる
甘柿ではなく、
どれも渋柿なのだが、
果肉がまだ硬いうちに食べる
甘柿が、いわば
生硬な味覚であるのに対して、
木の上で十分に熟させた渋柿は、
果皮はつややかな淡紅色、
果肉はとろりと柔らかく、
ホオが落ちてしまいそうな
豊満な甘さがあった。

毎日、学校から帰ってきては、
先端を二つに割り
小枝をはさんだ柿採り用のサオを
持ち出し、さて、
どの実にしようかと、
舌の先にその味覚を想像しながら
柿の木に向かう。
枝もたわわの実をほとんど
採り尽くし、野鳥に始末を任せた
家が幾つか残るころは、
秋もすっかり深まっている。

柿の木のうち一本は塀のそばに
あって、道路から容易に
手が届くが、その柿の木になる
実はなぜか甘柿そっくりのやや
角張った形で、通りがかりの
子供たちに、
これは甘柿に違いないという
誤解を与えるらしい。
このため、まだ青いうちから、
ときどき実がもがれては
道端に投げ捨てられている
ことがあった。恐らくは遠方から
来てそのへんをうろついている
悪童たちの仕業だったのだろう。
近所の子供たちはその柿が
渋柿であることは先刻ご承知の
はずだったからだ。
捨てられた実には決まって
幼い歯型が残されており、
歯型の主の落胆ぶりがうかがえ、
さぞ渋かったことだろうと、
気の毒に思ったりした。

話は飛ぶが、筆者の通勤途上に
ある民家に、やはり甘柿風の
渋柿が一本あって、
枝を路地に大きく張り出し、
毎年無数の実をつける。
色づき始めるころになると、
あれをむいて干し柿にしたらさぞ
うまいだろうと考えながらその枝
の下を通る。
しかし、木の持ち主は一向に
その気にならないようで、
やがて赤く熟れては枝から落ち、
路上にたたきつけられて
アスファルトを果汁で染める。

そのうちに熟柿が通行人の頭上
にでも落ちたか、あるいは道路を
汚すと苦情が持ち込まれたのか、
二、三年前から
突然木の持ち主は、
秋の成熟を待たず、夏のうちに
柿の枝をバッサリと切り落とし、
まだ小さい柿の実を情け容赦なく
もぎ落として、ゴミ箱に
始末してしまうようになった。

もともと、我が家の周辺では、
再開発の進展でここ数年、緑が
急速に姿を消している。従って、
この柿の木自体が切り倒される
羽目には至らず、残されている
のはせめてもなのだが、それに
しても日一日と色づいて行く柿を
ながめる喜び、柿紅葉を鑑賞する
楽しみをあっさりと
取りあげられて、少なからず
がっかりさせられている。
子供のころの柿の木がことさらに
懐かしいのは、
こうした理由にもよる。
<引用終り>_________

これは、1986年ころに
出版されたものですが、
今から32年前の日本の各地で
ちょうど、村おこしとか
再開発が盛んに行われ始めて
いました。
しかし、戦後の高度成長時期に
工業化が進展し、公害問題が
マスコミを賑わせ、
「水俣病」をはじめとした
公害による犠牲者が日本各地で
相次ぐなど、公害問題は
依然として残っているのは
現実です。
公害問題の主な原因は、
生態系内での
汚染物質による拡散、
および、その害を与える
物質が蓄積し、生態系内で
循環していることで
半永久的負のスパイラルに
なって、どうしようも
なくなっているという状況です。
現在の地球人には、
この地球環境さえも連携して
保全すらもできない。
幼稚な人間の総和だったという
現状に目を向けなければ
ならないのです。

これは、生態系の中の争いでは
ありません。
人間が生態系を打ち壊している
「生態系破壊インパクト」です。

人間にとって、多くの便利な
製品がつくられています。
しかも、多くがリサイクルできず
に捨てられている。

身の回りを見ても
ペットボトルでさえ、公害を
生み出す要素になってる。

人と自然が調和して生きている
ときは、そんなことは
無かったのでしょう。

公害の「根本原因」は
人間側の都合で自然を
『破壊』することです。

今回の「柿の木」のエッセイでも
書かれていますように、

人間が自然と向き合ったときに
邪魔だと感じたり、
人間だけの空間や都合を
優先したときに
「自然崩壊」が起こって
それまで、自然界から
恵みとして与えられていた
様々な恩恵の「果実」を
うけとれなくなってしまう
ということの
警鐘をあの文章で
のべたのかもしれません。

以下の文章個所は
そのことを如実に
語っていると思います。

>しかし、木の持ち主は一向に
>その気にならないようで、
>やがて赤く熟れては枝から落ち
>、路上にたたきつけられて
>アスファルトを果汁で染める。

では、また。

<追伸>
『四季を楽しむ
風物詩俳句歳時記「秋」より』と
述べていながら
俳句のひとつも載せずに
閉めてしまいました。

それでは、一句の紹介・・・

温泉の底にわが足見ゆるけさの秋
(詠人:蕪 村)


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