チャウシェスク政権の崩壊の例に学ぶ・・・安倍ちゃんとその仲間たちは、どうなの?

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こんにちは、\ソウジャ です。/

現在、国内の貧困の差がますます
開いてきてるように
感じてきました。

昔、こんな大統領がいましたよね・・・

1989年にポーランドで民主的な政権が成立した際、
ルーマニアにもこのような動きが波及することを
恐れたチャウシェスク大統領は、
チェコ事件の時とは反対に
ワルシャワ条約機構軍による軍事介入を
ソ連に要請した。

ルーマニアは独裁共産国家だったのです。

このとき、ソ連のゴルバチョフは
この要求を一蹴しました。

チャウシェスクは事実上ソ連に
見限られる形となった。
チャウシェスクは、なおも
権力の維持を図ろうとしました。

我が強く強情だったのです。

首都ブカレストを含めて
全国規模で暴動が勃発。
ソ連の介入がないことが
確定的となったため、
ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に
反旗を翻した。
同年12月に起きた
ルーマニア革命で
チャウシェスクは完全に失脚し
政権は崩壊しました。

12月25日、クリスマスに
逃亡先の
トゥルゴヴィシュテにおいて、
革命軍の手によって
妻エレナとともに
公開処刑(銃殺刑)されたのです。

以上がルーマニアに起きた過去の
政変の流れですが、、、

実は、背景には、ポーランド国民を
裏切る行動があり、国民感情を
逆なでする状況がいくつもあり、
国民の意向に、全然応えず、
無視続けた、結果が、公開処刑へと
つながったのでしょう。

チャウシェスクは
政権獲得当初こそ国民から
高い支持を得ていたものの、
1980年代にはその人気は
低下していったのです。
1989年頃になると、
チャウシェスクはもはや
ルーマニアの現状を受け入れることすら
ままならなかった。
それは、たとえば
1980年代末、一般市民がろくに
商品が無い商店の前に
長い行列を作っている中、
チャウシェスクは商品でいっぱいの店に入り、
大量の食ベ物を抱えて
芸術祭を訪問する
対照的な姿が
国営テレビで度々放映された、ことや
首都ブカレスト市内に
「国民の館」と呼ばれる巨大な
宮殿を建設し、党や国家の要職も
チャウシェスクの
家族・親族30人以上が独占していた。
こうした一般庶民の生活を
顧みない
政治姿勢に国民は失望し、
人気も支持も低下していったのが
その流れでしょう。

そして、1989年12月16日
、デモ勃発。
西部の都市ティミショアラで、
人権活動家でハンガリー改革派教会の
牧師テケーシュ・ラースロー
(ラースロー・テケーシュ)への
国外退去処分に対する
マジャル人(ハンガリー人)による
抗議デモが発生し、
治安警察がデモ隊に発砲、
多数の死傷者が出る騒ぎとなりました。
ちょうど、イランを訪問していた
チャウシェスクは急遽帰国、
テレビに出演し、
抗議デモを非難、
徹底弾圧する声明を発表しました、
が、しかし、
これが国民の不信感を
増幅させる結果となったのです。
まあ、この辺から、下り坂を
転げるように、、、
そして、裁判、
検事が罪状を読み上げる:
「大統領は、暖房や電気のない環境で、
大量の国民を餓死させ、
虐殺したのです。
(中略) 夫妻の最も忌まわしい罪は、
国民の意思を弾圧したことであります。」
ということで、
公開処刑まで、一気に時間が
過ぎていったのです。

まさに、裏で暗躍する
「戦争経済」が働いているということです。

さて、、、、ところで
コチラを御覧ください。
https://youtu.be/x37y-MbdmcY?t=61

ちなみに
このように沈みゆく
日本国家転覆罪の首謀者は、、、
それなりの罪があるわけですよね。。。

https://youtu.be/FipQzrIXUNE?t=554

では、また。

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