自分に対する「育成」と「いじめ」について

こんにちは、\Soujya です。/

今回のタイトルですが、

どうゆうことかって、、、

つまり、己に対する

■育成・・・長所をバンバン伸ばそうとする考えや行動。
     【無我】

■いじめ・・・短所を無くそう・無くそう・・として
      「アスッてる」こと。
     【有我】

ここで、「アスる」という文言が
登場してきました。。。

この意味は、
コチラにあります。
 ↓↓↓
https://dictionary.sekirintaro.com/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%8B/

引用させていただきますが、、、

そもそも悪霊のアスモデウス化してるの意味
として使われる用語で、男にも女にも起こり得るある種の
吸穴なる魔女的な態度の総称である。この現象はセカイ系
ともよばる、世界の中心が自分であり、自分や自分の周り
が常に特別でないと不貞腐れ捻れ、被害者意識を拡張し
募らせる心理的傾向をもつ。とくに恋愛などに対して
あらわになる傾向が強く、幼児願望なる自己牢獄状態を
指す言葉でもある。アスる人に見られる特徴的な行動は、
身の丈に合わぬものを年甲斐もなくまた努力下積みもなく
ねだる傾向、または安易な精神論でそれが手に入って当然
だという図々しさや言葉酔いにスピった傾向。また周囲と
協調した上での礼節を重んじた、慎みある知行合一を無視
する傾向。最もらしい事をまず地道に足元を重ねず、抽象
言語で誤魔化しマイスタイルを無礼に巧妙に
出しゃばらせる事に、加齢と共に罪悪感を感じれなくなる
傾向。この全ての根底に流れているのはメタ認知をしない
(客観性を無視する度合い)が強いという厳然たる事実で
ある。つまりどこかで常に自分の感じてる喜怒哀楽の方が
周囲の他者より価値があり重要であるという空気感が、
アスる彼らの臭さの原因であり醜因でもある。
傷ついた傷ついたと叫ぶのも、裏切られた裏切られたと
叫ぶのも、小さな善意がある人が周囲にいてくれるのに、
妙に不貞腐れつまらなそうにするのも、病気や不注意な
事故にあって注目を浴びてホッとするのも、じつは全て
アスりである…そして自分の心の痛みとやらの幻想が絶対化
していて、まさかその痛みが、同時にそれ以上の痛みを
周りに与えている事には一切無関心で無関係な幼稚な態度
を養っている事に彼らは気付かない。また気づきたくない
ゆえの甘さ弱さ偽善を修正しない頑固さが彼らの根深い
特徴である。これが正当化するに値しないことを正当化し
アスっている醜い姿である

ということであります。 ハイ。

ポイントは

>つまりどこかで常に自分の感じてる喜怒哀楽の方が
>周囲の他者より価値があり重要である
ということかどうかで決まるのでしょうね。

たとえば、何かをして、
何かを得たいとしましょう。。。

そうですね、たとえば
整体のセミナー講師という職業を例に
考えましょう。

この講師に憧れる多くの方々(約8割)には

ズバリ言います!けど、、、
「あなには、整体を教える講師の才能は
 残念ですが、ありません」
ということになります。

なぜか?

才能の中に努力が
入ってると思えるからです。

そうでなければ、受講者の
8割近くが、未だに
講師になれていないのは、なぜか?

講師になるという実現に向けた
努力を継続していないからでしょう。。。ね。

>最もらしい事をまず地道に足元を重ねず、抽象
>言語で誤魔化しマイスタイルを無礼に巧妙に
>出しゃばらせる
というのもアスッてる証拠ですよね。。

地道な努力を重ねることも
できないのなら
講師には、絶対に成れないと
断言しておきます!!!

講師になるためのセミナーに
参加しただけで
満足してしまう人が続出してます。。。

講師になるための
教材を購入しただけで
満足した人がいます。。。

このような人たちは
「お手頃に」セミナー講師になれる
とでも勘違いしている人たちですよね。

誰かやシステムや教材が
つまり、
自分意外の他の力によって
「お金で買ったんだから」
自分が変化できる。

いや、「変化させてくれや!」と
幼児な願望が、、、
根っこにあるのかもしれません。

さて、それはそうと

ほとんどの才能は
遺伝で8割くらい決まるという事を
述べておられる
方がいらっしゃいますので

紹介します。。。
https://www.personal-promote.com/?p=2230

先程、努力もせずに、
講師には成れない! と 断言しましたが

この、「相馬一進(そうまかずゆき)」氏は

次のように云ってます・・・
『先天的に才能がない分野で努力をしても、
一流にはなれません。
いや、平均的にすらなれないでしょう。

すなわち、先天的に才能がない分野を
改善しようとする試みは失敗するのです。

ひるがえって、
先天的に才能がある分野を
伸ばすしか
成長の余地がないのです。

それなのに、
自己肯定感が低い人は
自分の短所をなくそうと
努力をするのです。

・私ももう少し、気を配れたらいいのに……
・私も、もっと論理力があったらいいのに……
・私も、もっと話すのがうまければよかったのに……

そうやって、不可能にもかかわらず
短所をなくそうとすることは、
自分を虐待することに
他なりません。

たまに、自分の短所をなくすことを
成長だと思いこんでいる人がいて哀れですね。

その人にとっての成長は、さぞかし辛いことでしょう。

自分の短所については受容すること、
分かりやすく表現するなら、
あきらめるしかないのです。』

自己肯定感が高いという意味は、わたしは
「人体端末としての肯定感」というように
置き換えて認識しています。

そして、
「俺が・私が・私も・・」という

この、おれが・おれがの関心注目の的である固定点を
無くすことでの
【無我】の境地で
己の人体端末が、この世で
自分以外のなにか役に立てる事を
確信する必要が、
生きてる意味なのかなと思います。

では、また。


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