「三天使の使命」の意味について

こんにちは、\ソウジャ です。/

今回は、聖書にある
「三天使の使命」の意味について
告げたいと思います。

というのは、最近の人間による
というか、多くの
人間(多分、悪霊から
支配されてしまった人間たち、
あるいは、盲目的に生きること
だけの人たち)によって

地球世界が
利己主義、拝金主義、
霊的品格の低下、いじめ、
ストーカー、暴力・暴利、
レイプ、強盗・・・

そして
環境問題、貧困問題、
殺人、戦争、・・・

悪魔の仕業としか思えない
地上のありとあらゆる、
腐敗を感じます。

つまり
多くの人間が神に背いて

未だに神に敵対しており
いつしか、神によって

「ノア」のときのように
大きな、裁きの時が
近づいて来ているのかも
しれません。
さて、あなたは
現代のこれら事象について
危機感を感じますか?

『全然、感じない。
そんなこと言ったって
悪いとされてる「アレ」は
皆がやってるし、
オレ一人だけが悪いわけじゃ
ない。

それに、世の中、悪いヤツが
いるのが、当たり前だし。
それに、金さえ、あれば
100パーセントに近いくらい
ちょー、楽しいじゃん。
「それこそ、マジカミ」だよ。

お前は、何きれいごと
言ってんじゃねえよ。アホ!』

と思う方は、是非、この
画面を閉じてくださって
結構です。

では・・・

悪魔や悪霊が嫌いな方は
これから、紹介する

聖書に書かれた「極秘」に
されてきた、部分とも
云える、概念について
少しでも、触れてみてください。

その内容についてはココから
引用させて頂きました。

以下の言葉の意味が
分かってきますよ。
「まさに、現代はバビロン」
「多くの民は現在、
怒りのぶどう酒を
飲まされている」

では・・・
<引用開始>_________

http://srministry.chicappa.jp/srmain/people/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%98%E8%AA%B2%E3%80%80%E4%B8%89%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%81%AE%E4%BD%BF%E5%91%BD/
より

この「三天使の使命」という
テーマは、聖書教理の中で
十字架につぐ重要なものです。
十字架は、聖書の教えの中心と
なる教義であるのに対して、

三天使の使命は、聖書の教えを
完結するメッセージで
あるからです。

いったいこのメッセージは、
いつの時代に適合するものなの
でしょうか。これは、
神がこの世界に送りたもう最後の
警告であり、勧告なのです。

すなわち、神の救いのみわざを
完成するために、まもなく再臨
されるキリストを
お迎えするために、
われわれはどのような
備えが必要かを教え示す
メッセージです。

その意味で、これは別名

「現代の真理」また
「現代へのメッセージ」とも
よばれています。

これは、きわめて重要な教えで
あるだけに内容も豊富で、
これを詳述しようとすれば、
5課か6課に分けて説明
しなければならなくなります。

そうなるとページ数のかぎられた
この本には、とても収めきれなく
なりますので、残念ながら、

このテーマについては、一課目に
圧縮して、要点を箇条書き的に
簡略に説明するにとどめさせて
いただきます。
(本格的にお学びになりたい方に
は、追って関係資料を紹介させて
いただきます)。
「三天使の使命」の前提となる
基礎的真理

この「三天使の使命」について
学ぶためには、その前提として
幾つかのことを学ぶ必要が
あります。

「2300の朝夕」と称される
預言、ならびに、それと密接に
関連する旧約時代の
「聖所(せいじょ)の奉仕」に
関する教えなどです。
1、「2300の朝夕」の預言

これは、紀元前600年代、
バビロンに捕囚となっていた
ユダの民ダニエルという預言者が
、神から異象によって
あたえられた預言です。

その異象の中に、
最初に羊が現れ、その後に
山羊が現れています。
これはバビロンにつづく
ペルシャとギリシャを預言的に
示すものでした。

この山羊には四つの角があって
天の四方にのびていきましたが、
その角の一つから別の小さな
角が出て来て、みるみるうちに
大きくなり、神に敵対し、
神の聖所(せいじょ)を
踏み荒らす光景をダニエルは
見せられたのでした。

そのとき、二人の聖者が
幻の中に現れ、一人が他の一人に
訊ねています。
「常供(じょうく)の
燔祭(はんさい)と、
荒らすことをなす罪と、
聖所(せいじょ)とその衆群が
わたされて、足の下に踏み
つけられることについて
幻にあらわれたことは
、いつまでだろうか」と。

これに対して、他の聖者が
つぎのように答えています。
「2300の夕と朝の間である。
そして聖所(せいじょ)は
清められてその正しい状態に
復する」
(ダニエル書9の14)。

この異象によって、神の聖所
(せいじょ)が踏み荒らされる
ことを告げられたダニエルは、
驚きのあまり疲れ果てて、
病の床に伏してしまった
ようです。そのため、
この異象はやむをえず中断
されたようです。
数日ののち、ガブリエルという
天使が彼にあらわれ、
先の異象について詳しい
説明をしてくれています。
それによると、
この2300日のうち、最初の
70週が切り取られ、
ユダヤ人のために恩恵期間
として与えられる。
その70週の中に、7週と62週
とあり、その後にメシアが
あらわれる。だが、
彼は一週の間ユダの民と救いの
契約を結ぶが、
その週の半ばにこのメシアが
断たれる、というのです。
いったいこれは、
どんなことを意味する
預言なのか、ということですが、
聖書によると預言の年代は
、一日を一年として数えるように
という聖句があります。
(民数記14の34、
エゼキエル4の6)。
そうすると、ダニエルが異象
によって示された
2300の朝夕というのは、
2300年という長期間
に関わる預言ということに
なります。
いったいこの期間はいつから
始まるものなのか、
ということですが、天使は
ダニエルに対して
「エルサレムを建て直せ
という命令が出てから・・・」
(ダニエル書9の25)と
説明しています。
2、この預言は何を意味

していたのか当時、ユダの民は
バビロンに捕囚
となっていましたが、この
バビロンが後にペルシャによって
滅ぼされました。そのため、
ユダの民はそのままペルシャの
支配下におかれるかたちと
なりました。
ところが、神はこのときから
200年も前に、預言者エレミヤ
によって、ユダの民の捕囚期間は
70年であると告げて
おられたのです
(エレミヤ書25の11、12)。
ちょうどその期間の終わりごろに
、神のお告げを受けた
ペルシャ王から、ユダヤ人に
対する解放命令が
出されたのです。それは紀元前
457年のことでした。
それから7週のあいだに、
荒廃したエルサレムが
建て直され、62週ののちに
メシアが現れるというのですが、
これは紀元27年に当たります。
この年にキリストはバプテスマを
受けて伝道の公生涯には
いられたのでした。
それから一週(7年)の間、
民と契約を結ぶが、彼はその週の
半ばに断たれるという預言です。
週の半ばといえば、
それは紀元31年になります。
この年にキリストは、事実
十字架に架けられて殺され
ているのです。
では、残る3年半は
どうなったのでしょう。
この期間はイエスが地上に残して
行かれた弟子たちによって、
ユダヤ人を対象に伝道がお
こなわれたのでした。
こうして70週(490年)の
終わりは、紀元三四年に
なりますが、この年に青年伝道者
ステパノがユダヤの議会に
呼び出され、彼の活動について
尋問を受けています。
彼はそこでおそれることなく、
キリストの復活について証言を
したため、議員らのはげしい
怒りをかい、そのために
石打の刑に処せられています。

この出来事は、ユダヤ人が
国家としてキリスト教を完全に
拒否したことを示すものであり、
その結果、彼らは神の選民として
の特権を取り上げられ、
民族としては神から捨てられる
ことになったのでした。

こうして、ユダヤ人を対象とする
伝道は打ち切られ、
このときから、異邦人を対象に
福音が伝えられるように
なったのでした。

ところで、この2300年という
長期間にわたる預言の目的は何か
といえば、それは救い主キリスト
を指し示すことにあるわけです
が、われわれはまず、
この預言とその成就によって、
キリストこそは
まさしく神のお遣わしになった
救い主であるということを
確信することができる
わけなのです。

それと同時に、さらにもう一つ、

十字架の死後復活し、
天に帰られたキリストが、
いま天において何をしておいでに
なるのかということについて、
この預言はそれを知る手掛かりを
与えてくれるという点で、
たいへん重要な意味をもって
います。

すなわち、2300の朝夕の
預言は、聖所(せいじょ)の清め
について言及していますが、
キリストはいま、天にあるその
聖所(せいじょ)において、
われらのために執り成しの
はたらきをつづけておられる
ことがわかるのです。

そして、それについて詳しく
知るためには、旧約時代に
地上に設けられていた
聖所(せいじょ)と、そこでの
奉仕について調べてみる
必要があるわけなのです。

なぜなら、
かつて地上に存在した
聖所(せいじょ)は、現在天に
存在する聖所(せいじょ)の
予型であり、
ひながたであったからです。

聖所(せいじょ)の清めとは?

この聖所(せいじょ)というのは
、ユダヤ人がエジプトから
救い出されて、神の備え給う
地カナンに向かう途中、
シナイ山の麓に露営していたとき
、指導者モーセが神からお告げを
受け、神の指図に従って造ったも
のでした。

「また、彼らにわたしのために
聖所を造らせなさい。
わたしが彼らのうちに住むため
である。
すべてあなたに示す幕屋の型
および、そのもろもろの器の型に
従って、これを造らなければ
ならない」
(出エジプト記25の8、9)。

これは、会見の幕屋とも
よばれていたように、
神が民の中に住み、
民が神を礼拝するために
設けられたものでした。

この聖所(せいじょ)において、
民は毎日朝晩小羊を殺し、
これをいけにえとして神に捧げ、
祭司は民を代表して
聖所(せいじょ)(前の部屋)で
、罪の赦しを祈り求めて
いました。
この聖所(せいじょ)の構造、
またそこで行われる奉仕(儀式)
の一つ一つが、神の救いの計画と
その意味を図示するもので
あったのです。そのなかでも、
とくに重要な意味を持つのは
犠牲として捧げられる動物と
、神への奉仕者である
大祭司でした。

犠牲の小羊は、人類の罪の
身代わりとして、十字架に
架けられて殺されたキリストを
象徴するものでした。
また、民に代わって罪の赦しを
祈り求める祭司は、いま天の
聖所(せいじょ)でわれわれ
罪人の救いのために、執り成し
をしておられるキリストを指し
示す予型であったのです。

すなわち、キリストは人類の罪の
ために犠牲となって十字架の死を
遂げられましたが、死を滅ぼして
復活されたキリストは、
昇天されてのち、天にある前の
聖所(せいじょ)でわれわれの
ために、執り成しのつとめを
行なっておられたということ
なのです。

ところで、ユダヤでは年に一度
贖罪日というものが
定められており、その日
(ユダヤ暦の7月10日)には
大祭司が至聖所(せいじょ)
(奥の部屋)に入り、
聖所(せいじょ)の清め
という、特別のつとめを行う
ことになっていました。

このときには、民たちが
聖所(せいじょ)のまわりに
集まって断食をし、身を悩まし、
たがいに罪の告白をおこなって
いたのでした。
そして大祭司がつとめをおえて
至聖所(せいじょ)から出て
くるときまでに、罪を告白
しなかった者は、民のうちから
断たれることになっていました。

したがってこの日は、
民に取っては裁きの日でも
あったのです。
すなわち、預言者ダニエルは、
神から示された異象の中で、
「2300の朝夕(2300年)
ののちに聖所(せいじょ)が
清められる」と告げられています
が、この預言期間の開始は紀元前
457年であり、それから
2300年後は1844年にな
るわけです。

この年、とくに贖罪の日
(ユダヤ暦の7月10日、
ローマ暦では10月22日)と
いうのは、ユダヤ人にとっては
裁きを意味する日でしたが、
そのように、2300年の預言
期間の終わり、1844年に
聖所(せいじょ)が清められる
というのは、この年に神の裁きが
はじまつたことを意味して
いたのです。
この天における神の裁きが開始
されたことを告げ知らせるのが、
三天使の使命であり、
任務なのです。
三天使の使命とは?

これは、
ヨハネの黙示録(もくじろく)
14章に記されている
ものですが、ここに三人の天使が
次々とあらわれ、中空を飛び
ながら、大声で神からの
メッセージを叫んでいます。
第一天使の使命

「わたしは、もうひとりの御使が
中空を飛ぶのを見た。彼は地に
住む者、すなわち、あらゆる
国民、部族、国語、民族に宣べ
伝えるために、永遠の福音を
たずさえてきて、大声で言った、
『神をおそれ、神に栄光を
帰せよ。神のさばきの時が
きたからである。天と地と
海と水の源とを造られたかたを
伏し拝め』」
(ヨハネの黙示録(もくじろく)
14の6,7)。

この第一の天使の布告する
神よりのメッセージは、
「永遠の福音」
といわれています。永遠という
以上、この福音はいまに
始まったものではなく、
遠い昔から伝えられていたものに
ちがいありません。

では、それがなぜ、いままた
改めて、特別に布告されなければ
ならないのでしょうか。
それは、神の福音が歴史の
途中で曲げられ、歪められて
しまっているためです。

使徒パウロは、
すでに次のように
警告していました。
「違った福音に落ちていく」
「キリストの福音が
曲げられようとしている」
「わたしたちが宣べ伝えた福音に
反すること」(ガラテヤ人への
手紙1の6〜8)。

こうしたことが、これまでの
歴史の中でたしかに現実となって
います。ですから、それを
ほんらいの正しいすがたに
戻す必要があるのです。

この第一天使のメッセージには、
ある出来事についての警告と、
それに対する備えの必要について
の訴えとが含まれています。
一、警告

これは、いまから2500年前、
預言者ダニエルが異象によって
神から示されていた預言、
「2300の夕と朝」
(2300年)のおわりに、
「聖所(せいじょ)が
きよめられる」という、
換言すれば
「神のさばきの時がきた」という
告知です。

二、備えの必要

これは
「神をおそれ、
神に栄光を帰せよ」という
訴えです。
福音の中核は、神との関係の
正常化ということなのですが、
残念ながら、こんにち人々は、
神を離れ、神を無視し、
人間中心、人間本位の考え方に
立ち、自己追求の生き方に
終始するようになっています。

しかもこれは、
一般世人にかぎらず、教会自体が
そのような状態に陥っている。
こうしたまちがった考え方や
生き方を改めて、本来のあるべき
正しい姿に戻る必要がある
という、これはいわば、
神の裁きに対して、人々を
備えさせるための神の警告、
また勧告のメッセージなのです。

これは、ひとことでいえば、
「天地の創造主である神を
礼拝せよ」
ということなのですが、この
「礼拝」とは何か。
それはたんに頭を
下げることではありません。

真の礼拝には、
つぎの3つの要素が
備わっていなければなりません。
それは、
献身と服従と奉仕です。

1、まず献身です。

われわれは神によって造られ、
生かされているものです。
この事実を確かなものにし、
かつその関係を
持続するためには、神に
しっかりと連なっていることが
必要です。
すなわち、この神への帰属を
明確にすること、
これが献身にほかなりません。
2、つぎは服従です。

これは神に連なる方法に
かかわるものです。
具体的には、神の政府の憲法で
ある律法(十戒)を
守ることです。
神の民が、神の国の住民で
あるためには、神の国の憲法を
尊重しこれを遵守すること、
これは当然の義務で
あるはずですが、事実は
これが殆どの人びとに
無視されています。

そればかりか、教会によっても
軽視され、なおざりにされて
しまっています。
具体的には、十戒の第4条に
「安息日を聖とせよ」と
ありますが、これは
天地創造の記念日であり、
この日は、神と交わるために
すべての働きを休んで、
神への礼拝を守るように
すべきなのです。

ところが、この安息日は
第7日となっています。
聖書のいう第7日は、
こんにちの
土曜日にあたります。ですから、

かつて神の選民であった
ユダヤ人は、こんにちも
土曜日を安息日として、
国全体、民族全体がかたく
守っています。

それにもかかわらず、
こんにち異教世界は
もちろんのこと、キリスト教会
自体が、日曜日
(週の第1日)を安息日とし、
この日に神を礼拝しています。

なぜこうなったのか?
これは紀元4世紀に、
ローマ法王によってこの日が
変更されたためです。
理由は、第7日を安息日とする
のは、ユダヤ教である。
キリスト教は、キリストを
拒んだユダヤ教と同じではない。

であるから、キリスト教は
キリストの復活した日曜日を
礼拝日とするのが真に
ふさわしい、という理由の
ようです。

しかし、キリストの復活を
記念することは自由ですが、
聖書になんの根拠もない
ばかりか、(ということは、
これは神のご要求ではな
いということである)
この日を記念しても、
それは安息日を守った
ことにはならないのです。
なぜなら、
この日を守ることは、
どこまでもキリスト復活の
記念であって、十戒第4条の
安息日とは何の関係も
ないことだからです。
そればかりか、
実は日曜というのは、太陽を
神とする異教世界が、太陽を
祭る日としてきた日でした。

ですから、日曜日は
太陽礼拝(偶像礼拝)の
シンボルでもあるのです。

したがって、この日を安息日と
し、この日に神を礼拝する
ということは、
天地の創造主なる真の神に
たいする冒涜的行為ということに
もなるのです。
なぜなら、それは聖書の神を
偶像の神と混同することに
なるからです。

安息日は神の印

それにしても、なぜそんなにも
日そのものにこだわるのかと、
これを疑問に思われる方が
あるかもしれません。
しかし、じつは日曜日が太陽の神
のシンボルであるように、

第7日(土曜日)は
天地の創造主なる
神のシンボルなのです。

いや、シンボルどころではない、
神の印とされているのです。

「こうして天と地と、
その万象とが完成した。
神は第7日にその作業を
終えられた。
すなわち、そのすべての作業を
終って第7日に休まれた。
神はその第7日を祝福して、
これを聖別(せいべつ)された。

神がこの日に、
そのすべての創造のわざを
終って休まれたからである」
(創世記2の1〜3)。

ところで、
この安息日が神の印である理由は
なにか、ということですが、
神の印とは、神のものとそうで
ないものとを区別する
なんらかの目印となるものを
意味します。
いいかえれば、天地の創造主
である神とその他の者とを
区別し、識別できるしるし
となるものです。
それはなんでしょうか。
そもそも印には、つぎの
3つの要件が備わって
いなければなりません。
印鑑でしたら、その人の固有名
と、職権と、職権のおよぶ
範囲です。
たとえば、わが日本の統治者の
場合、「安倍晋三」という
固有名、それに内閣総理大臣
という職権、さらに、
その職権の及ぶ範囲すなわち
日本国という領域の明示が
必要です。

神の印の場合、
固有名はヤーウェ(主)、
権威は創造主(支配者)、
範囲は天と地と海と水の源
(全宇宙・森羅万象)、
この三つが備わっていなければ
ならないわけですが、
われわれは、どこに、何に、
それを見出すことが
できるでしょうか。
それは神の政府の憲法である
十戒の中にこれを
見出すことができるのです。
すなわち、第4条が、まさに
それにあたります。

この第4条こそが、この律法を
定めて遵守を命じておられる
神と、それ以外の神々とを
区別する、唯一の印となる
戒めなのです。
すなわち、この第四条は、
律法の制定者は天地の創造主で
あることを明示しています。

さらに、神の民にとっては、
これを守ることが、われわれが
信じてしたがつている神は、
天地の創造主であって、
それ以外の神ではないことを
あかしする唯一の証拠、
また印となっているわけです。

ですから、
聖書にこう記されています。
「あなたは必ずわたしの安息日を
守らなければならない。これは
わたしとあなたがたとの間の、
代々にわたるしるしであって、
わたしがあなたがたを
聖別(せいべつ)する主である
ことを、知らせるためのもので
ある。それゆえに、あなたがたは
安息日を守らなければならない。
これはあなたがたに
聖なる日である。
・・・ゆえにイスラエルの
人々は安息日を覚え、
永遠の契約として、代々安息日を
守らなければならない。
これは永遠にわたしとイスラエル
の人々との間のしるしである」
(出エジプト記
31の12〜17)。

「わたしはまた彼らに安息日を
与えて、わたしと彼らとの間の
しるしとした。これは主なる
わたしが彼らを聖別(せいべつ)
したことを、彼らに知らせるため
である。・・・
主なるわたしはあなたがたの
神である。わが定めに歩み、
わがおきてを守ってこれを行い、
わが安息日を聖別(せいべつ)
せよ。
これはわたしとあなたがたとの
間のしるしとなって、主なる
わたしがあなたがたの神である
ことをあなたがたに
知らせるためである」
(エゼキエル書20の
12、19)。

すなわち、この安息日の戒めは、
たんに神の印であるというに
とどまらず、神と神の民との
あいだの契約の印である
というのです。

安息日がこのようなものである
とすると、神への信仰は
心の問題なんだから、
日にこだわるのは、あまりにも
形に捕われすぎた形式的信仰
ではないかという批判は、
事の本質を見誤った、
まちがった指摘と
いわねばなりません。

ところで、
これほど重大な意味を
持つ安息日のいましめが、
こんにち変えられており、
正しく守られていない
ということは、
神と人間とをつなぐ、
紐(生命線)が断ち切られて
いるということであり、

これはとりもなおさず、
神の民を自称する者までもが、
神への帰属を拒み、その絆を
放棄していると
いうことにもなるわけです。

ですから、キリストの再臨を
まぢかに控え、
神の最終的審判が
すでに開始されたこんにち、
人類が改革すべき
最重要課題は、
聖書に基づく正しい安息日を
守るようにすることなのです。

それにしても、
安息日の戒めはやはり
印であって、それは目に見えない
信仰の、目に見える象徴に
ほかなりません。
それは国旗や軍旗、また帽章の
ようなものです。これは
その人が、どこの国の人か、
どこの学校の生徒かを示す印と
なるものですが、
大事なことは、その人がほんとう
に国旗の示すとおりの人か
どうか、帽章が示すとおりの
生徒かどうかにあるわけです。

信仰についていえば、
第7日安息日を守る
ことによって、その人が
どんな神を信じて従っている
人なのかを示す印となって
いるわけですが、問題は
実質的に天地の創造
主なる真の神に、その人が
帰属する者となっているか
どうかです。
すなわち、信仰の実質が、
その印が示すとおりの信仰か
どうか、もしそうでないなら、
たんなる形式主義者、
いいかえれば律法主義的信仰者と
いうことになってしまいます。

ですから、印は信仰の表明、象徴
として大事なものであり、
これはおろそかにしては
ならないことも、もちろんです
が、それはどこまでも
実質としての信仰それ自体の
表明であり、それは外的象徴で
あって、その印には
内面において、それに相当する
実質がともなって
いなければ意味がない。
これは改めていうまでも
ないことです。

3、もう一つは
奉仕ということです。

奉仕とはすなわち、神に
帰属する者としての任務、
また生活の在り方のことです。

これまで曲げられ、
見失われていた福音の中核的
真理が、2300年の終わり、
1844年から明らかにされ、
これが世界に宣べ
伝えられているのですが、
われわれは神の民として、
こうした神よりの真理を
世の人々に知らせる責任を担う
ことも含めて、神に仕えることが
神の礼拝者となることに
ほかなりません。

いずれにしても、
この第一天使の使命というのは、
こんにちすべての者に対して、
天地の創造者なる真の神に対する
礼拝への招きが発せられている
ということであり、
そのことを告げ知らせるはたらき
というか、運動を意味するのが、

第一天使の使命であり、
任務なのです。
そして、これが神の裁きに
たいする備えとして、いまわれわれの

なすべき分である
ということです。
第二天使の使命

では、第二天使の使命とは
なんでしょうか。

「また、ほかの第二の御使が、
続いてきて言った、
『倒れた、大いなるバビロンは
倒れた。その不品行に対する
激しい怒りのぶどう酒を、
あらゆる国民に飲ませた者』」
(ヨハネの黙示録(もくじろく)
14の8)。
ここでいわれている
バビロンとは何か。
このバビロンの起原については、
創世記の第11章に
記されていますが、要は人間が
神の救いの計画を無視し、
神を除外して、人間を中心とし、
人間が主体となって、救いを
達成し、これを実現しようとする
企てを言い、そのための
努力の結集を意味しています。
バビロンという語自体、
それはばらばらの状態、
混乱を意味します。

なぜそうなったのかといえば、
それは彼らが、みずからの上に
神の怒りを招くような
あやまった思想や教えに
惑わされた結果に
ほかなりません。
こんにち世界は、神のみ旨とは
無縁の考え方によって、
政治が行われ、さまざまな営みや
生活がなされています。

ことに、教会自体、神の啓示で
ある聖書から外れた教えを説く
ことにより、それによって、
人びとが惑わされ、また
毒されていますが、その結果、
神から見捨てられ、
失われようとしているという
宣告のメッセージです。

「大いなるバビロンは倒れた」
とある。
バビロン、これはたしかに、
大いなる力と勢いを
示していよう。しかし、聖書を
歪曲し、神を無視し、
神から離脱した組織なり
運動なりは、けっして
成功しない。そればかりか、
幹から切り離された枝のように、
命がないので、もうすでに
倒れた存在となって
いるということなのです。
そして、それを告げ知らせるのが
、第二天使の使命なのです。
第三天使の使命

では、第三天使の使命
というのは、どんな意味を
持つものなのでしょうか。

「ほかの第三の御使が彼らに
続いてきて、大声で言った、
『おおよそ獣とその像とを拝み、
額や手に刻印を受ける者は、
神の怒りの杯に混ぜものなしに
盛られた、神の激しい怒りの
ぶどう酒を飲み、聖なる
御使たちと小羊との前で、
火と硫黄とで苦しめられる。
その苦しみの煙は世々限りなく
立ちのぼり、そして、獣と
その像とを拝む者、また、
だれでもその名の刻印
を受けている者は、昼も夜も
休みが得られない。
ここに、神の戒めを守り、
イエスを信じる信仰を
持ちつづける
聖徒の忍耐がある』」
(ヨハネの黙示録(もくじろく)
14の9〜12)。

これは、第一天使の使命を
拒否し、第二天使による
「倒れた」という宣告を
受けた者は、最後にどう
いう結果を招くことになるか
ということを
警告するメッセージです。

獣とは、聖書においては、
神に敵対する地上の政治権力を
指しています。
すなわち、獅子はバビロン、
熊はメド・ペルシャ、
豹はギリシャ、
地上には見あたらないような
恐ろしい獣はローマ、
それに小羊のような角を持つ獣は
アメリカを象徴しているのです。

獣の刻印とは、神の印と
反対の印。
ということは、いまはまだ、
だれにも理解できないことかも
しれませんが、
聖書の預言によれば、
やがて近い将来、
日曜休業令というものが
施行されることになります。

これは、新教国アメリカが
旧教の法皇権を支持し、
これに協力する形で実現を
目指すことが、黙示録13章に
預言されていますが、
いまアメリカは現実に、着々と
その準備をすすめています。
すなわちそれは、宗教的信条が
政治の力によって律法化され、
人々に強要されるようになると
預言されているのです。

そのときがくれば、
それに従う者は、額と手に
この獣の印を受けることに
なるのです。
獣の印は、神に敵対する
政治勢力の印なのですから、
この印を受ける者は、
その結果としてどのような
刑罰を招くことになるのか
という、それを告げ知らせる
警告のメッセージが第
三天使の使命なのです。

むすび

ただしこれは、
やがてそうなるという恐喝的
宣告ではなく、
そうならないようにしなさい
という、神のあわれみの警告で
あり、それから逃れるために、
唯一の避け所である
わたしのもとに来なさい
という、招きの声でも
あるのです。
「この後、わたしは、
もうひとりの御使が、大いなる
権威を持って、
天から降りて来るのを見た。
地は彼の栄光によって
明るくされた。
彼は力強い声で叫んで言った。
『倒れた、
大いなるバビロンは倒れた。
そして、それは悪魔の住む所、
あらゆる汚れた憎むベき
鳥の巣くつとなった。
すべての国民は、彼女の姦淫に
対する激しい怒りのぶどう酒を
飲み、地の王たちは彼女と
姦淫を行い、地上の商人たちは、
彼女の極度のぜいたくによって
富を得たからである』」
(黙示録18の1〜3)。

ちょっと見ると、
ここにどぎつい言葉、淫猥な
表現が羅列されている感じで、
人類全般、ことに神の教会とは、
まるで無縁のことが述べられて
いるように思ってしまいがち
ですが、ここにいわれている
姦淫とか酒とかいうのは文字通り
のことではなく、
比喩的表現なのです。
それは真理に対する誤謬、
神の言葉に対するサタンの教え、
そしてそれとの習合妥協を
指しています。
考えて見ますと、
この世の思想や
信仰はすべて、神の真理と
相容れない、むしろ神の教えとは
無関係の、それこそ堕落し
腐敗した思想に汚染されて
しまっています。
そして、
これこそがあたかも、
酒のように人々を魅惑し、
泥酔させて、理性も良心も
焼き金で焼かれたように、
人々をして神の真理に対して
不感症・無感覚となり、
神の呼びかけに対して
無反応の状態に陥れているのが
現実なのです。

こういう指摘に対しては、
当然、反発を感じる方も
おられるかとは思いますが、
しかし、これは正直言って、
神の御目から見た人間の
否定できない実態なのです。
そして、このような状態こそは、
とりもなおさずサタンの
惑わしに、唯々諾々と身を
委ねている背信教会の
現状であり、その意味で
これはまさしく霊的姦淫に
ほかならない
というべきなのです。

これは神からすれば、
愛する人間の、ご自身に対する
無節操な裏切り行為であって、
到底、目をつむって放置して
おくことのできるものではない
わけです。
そこで神は、次のように
訴えておられます。

「わたしはまた、もうひとつの
声が天から出るのを聞いた、
『わたしの民よ。
彼女から離れ去って、
その罪にあずからないようにし、
その災害に
巻き込まれないようにせよ。
彼女の罪は積り積って
天に達しており、
神はその不義の行いを
覚えておられる』」
(黙示録(もくじろく)
18の4,5)。
彼女というのは、
背信思想をまき散らしている
背教勢力をさします。
こうした思想や教えに
惑わされている人々に対して、
神は止むに止まれぬ哀切の
思いから、
「その中から出てくるように」と
、悲痛な招きの叫びを
挙げておられるのです。

あなたはこれに対して、
どのようにお応えに
なられるでしょうか。

では、この招きに応えようと
する者は、どこへ、
どうすればよいのでしょうか。
それは神の招きに応えた人々の
群れに加わることです。
これを聖書はエクレシアと
呼んでいます。
これはギリシャ語ですが
「召し出された者」という
意味です。
すなわち、神の前に
呼び集められた者の群れを
指す言葉です。
この群れの詳細については、
後ほど改めて取りあげることに
なりますが、いずれにしても、
この神の招声は、
三天使の使命の総括的結論
ともいうべきものであり、
神がこの世界にお送りになる
最後の警告のメッセージ
なのです。

要点の確認

この三天使の使命は、
聖書の教理の中で、
キリストの十字架につぐ
重要な意味をもつ真理である。

これを知るためには、
その前提として
ダニエル書8、9章に
記されている「2300の朝夕」
と称される預言を研究する
必要がある。
そこには、2300日
(2300年)の後に、
聖所(せいじょ)が清められる
とある。
聖所(せいじょ)の清めとは何か
を知るためには、
イスラエルが神の命にしたがって
設けた聖所(せいじょ)と
そこでの奉仕について
調べる必要があるが、そのなかで
とくに注目すべきは、
大祭司の働きである。
彼の奉仕には日ごとの奉仕と共に
重要なのは年に一度の贖罪の日の
つとめであった。

そして、この日は
民にとっては、さばきを意味する
厳粛な日であった。
旧約時代に存在した
この聖所(せいじょ)とそこでの
奉仕は、神の救いの計画の模型
であり、それは実のところ、
キリストの十字架の死と、
復活してのち天に帰られた
キリストが、これまで天の
聖所(せいじょ)において、
われわれ罪人のために
なさっておられた執り成しの
はたらの予型であり、それを
象徴的に示すものであった。

キリストは昇天されて、
最初、前の聖所(せいじょ)で
奉仕をしておられたが、
2300年の終わりにあたる
1844年からは、
至聖所(せいじょ)に入られ、
「聖所(せいじょ)の清め」
という特別の奉仕を
はじめられた。これは、
地上の民にとっては、
「神の裁きの開始」を意味する。

三天使の使命は、
この「裁きの時」の開始を告げる
と共に、これに対して、
どういう備えが必要かを知らせる
メッセージである。
具体的には、
天地の創造者なる「神の印」で
あり、この神と民との間の
「契約のしるし」である
第7日安息日をおぼえて、
この日に「神を礼拝せよ」との
招きなのである。
残念ながら、
こんにち安息日は
第7日(土曜日)が、
第一日(日曜日)に変えられて
しまっている。
そうした背信の体制に
押し流されることなく、
そこから離れて神の支配に
復帰するようにという招きが
与えられているのである。
<引用終了>_________
長い・なが~い
引用をお読み頂きありがとう
ございました。

(また、コチラの動画をどうぞ)


(どうやら、この動画を
見てもらっては、困る存在が
ある電磁周波数を放って
動画放映の邪魔をしているのを
感じました。
あなたは、それを感じましたか?
悪霊が邪魔に入るということは
喋っている内容は騙しの
カケラも無い、まじりっけなしの
「真実」が語られているという
証拠ではないかと思うのです)

これまで
キリスト教の教会の中には

聖書に無いことを
あたかも、神が示されたという
内容で布教している、
「背乗り教会」が
昔から、後を絶たずに
活動しており

人々に混乱と誤解を
生じさせてきています。

それが、悪霊のなせる技でも
あるのですが・・・

ところで、文中に
>新教国アメリカが旧
>教の法皇権を支持し、
>これに協力する形で実現を
>目指すことが、黙示録13章に
>預言されていますが、いま
>アメリカは現実に、着々と
>その準備をすすめています。

という箇所があります。

そういえば、日本では

現在、天皇の退位を検討中ですが

平安時代に

天皇が退位して「上皇」となり
上皇が出家して「法皇」になる。

というようなことをやっていた
訳で、現代に置き換えれば

皇室典範を見直すことで

・天皇→権威性として継続
(現在の皇太子へ譲るのか?)

・上皇役→権力化(軍事統率)

・法皇役→宗教統一(米と共に)

とか連想してしまいます。
そうなったら
皇室三権となるかも
しれません。
騙されてはなりません。

動画でも述べているように
悪魔が非常に嫌うものが
あります。

それは
「まねるべき手本・法則」
というのがあり、
キリストは私達に神の教えを
解く、中保者(神と人との間を
とりなす)の役割があって
その中保者であるキリストは
私たちにとって、お手本であり
彼の言う言葉は神からの
「御言葉」そのものであるという
認識で人が生きること。

そして
神(キリスト)による救いは
人が行なう「行い」が先ではなく
「信仰」があって、救われる
ということ。
行いを重視すると
「偽善」が蔓延ってしまいます。

従って、神への思いとして
献身と服従と奉仕による
真の礼拝をすることで
救いがもたらされるのです。

多くの慈善団体に心の眼を
奪われてはなりません。

では、また。

スポンサーリンク
あなたの個性にあわせた婚活

エクセレンス青山

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
あなたの個性にあわせた婚活

エクセレンス青山